破壊屋ブログ

ネタ系映画ブログです。管理人はこの人→http://hakaiya.com/giccho

ネイティブ・アメリカン虐殺の贖罪(ただしゲーム・映画とかで)

前から言いたくても言えなかった事ですが、状況的に今なら書ける話なので書きます。
ネイティブ・アメリカン虐殺を描いたゲーム『バイオショック・インフィニット』の考察で「(赦しという意味での)贖罪の物語だ」と書いている人やサイトが非常に多いですが、違うと思います


↑『バイオショック・インフィニット』で、中東系・ネイティブアメリカン・ラテン系・アジア系を導く白人様。

『バイオショック・インフィニット』知らない人は、↓を参照してください。この記事書いたときも「赦しの物語だ」という反論が来て「違う」とコメントしたことあります。
hakaiya.hateblo.jp


例えばですが
「元ナチスがホロコーストを贖罪する物語」
とか作ったら炎上すると思いませんか?もし
「日本に原爆投下した贖罪」
とか言われても
「贖罪で済む話じゃねーよ!」
と思いませんか?それと同じです*1


『バイオショック・インフィニット』の主人公は悪名高き「ウンデット・ニーの虐殺」の加害者です。主人公がネイティブ・アメリカンを殺した罪に苦しむ話なので「贖罪の物語」と言い出す人が多数発生しています。
ちょっと面倒臭い解説しますが、まずゲーム中の「洗礼」が贖罪を意味しています。主人公は虐殺後の洗礼から逃げ出して借金(The DEBT)だらけになります。主人公は贖罪から逃げたのです。借金(The DEBT)は「負った罪」という意味もあります。で、このゲームの悪役も「ウンデット・ニーの虐殺」の加害者で、洗礼から逃げ出さなかったんですね。悪役は贖罪を受けたので「俺の罪は赦された」という考え方をしている。

つまり

  • 主人公:虐殺の罪(借金)を支払う側
  • 悪役:虐殺の罪を赦された側

という対決構造なんです。「贖罪」という表現は確かにどっちにも当てはまりますが、主人公よりも悪役側の倫理です。「贖罪」って言葉自体はカッコいいですが加害者側の言葉なんです。ちなみに悪役の正体や、主人公が虐殺の罪を支払う展開は、座っているゲーミングチェアからひっくり返るほど驚く展開ですぜ。

アメリカでは昔からネイティブ・アメリカン虐殺の贖罪を描いた作品はありますが、それは古い倫理です。2013年に発売された『バイオショック・インフィニット』はその倫理感を進化させて「贖罪では済まない」まで描いたわけです。
しかし現在の倫理感はもっと進んでいます。『バイオショック・インフィニット』も「何で白人が主人公なんだよ」と批判される可能性がある時代です。

今回のオチ

ホロコーストや原爆投下の贖罪は不可能だけど、ネイティブ・アメリカンには奪った土地を返すという贖罪の方法があるはずなんですよね。どんだけ人類の論理感が進歩しても、その贖罪だけは絶対にやらないですが。

*1:日本の第二次世界大戦中の加害行為も贖罪不可能